アルタイルの諦念


Astro-E2

君が望むものを手に出来るように。
七月の星への祈りは、すべて君に捧ぐから。
どうか今だけ、この身勝手を許してね。

















































      別れよう、ルルーシュ

ああ、最後に自分はうまく笑えただろうか。
終わることに綺麗なことなんてないとわかっていて、それでもあれが精一杯の虚勢だった。









用意した理由は完璧のはずだったけど、彼の袖を引いた途端に怖くなった。
震えていることを知られたくなくて、返事も聞かずに逃げ出した。
体力には自信があったはずなのに、階段の途中で力尽きてしまった。
足に力が入らず、その場に崩れた。

「う、ぅう゛、あっ、」

頬杖をついたルルーシュを眺めながら、ずっと堪えていた。
細い黒髪が金色の光に透けて、とても綺麗で。
だけど触れたかった輪郭は眩しくて、眩しすぎて。
だけど悩ましく寄った柳眉に思わず手を引いた。
引かなければいけないと、僕は知っていたから。

「うぅ…ひっ」

嗚咽が止まらない。
喉も肺も胸も、すべてが苦しい。
衣替えしたばかりの半袖のシャツに、溢れるような水滴が染み込んでいく。
これが最善だと言い聞かせてみても、心臓を無理に二つに引き裂いたような痛みで目が眩んだ。

「うっ、…っ、ル、…ル」

霞むような視線が、夕闇の空に吸い込まれた。
階段の踊場の四角い窓からうっすらと、少し時季の早い天の川が見える。
昨日までは泣き出しそうな曇天ばかり続いたのに、今日に限って夏を思わせるような快晴だったのだ。
牽牛織女は、来月になればあの煌めく河を渡るのだろうか。
そして愛しい人の手を取るのだろうか。
年にたった一度だけの逢瀬。

(僕には、無理だよ)

364日間、大切な人と離れているなんて、きっと出来ない。
出来ないから、自分の出した答えは正しいはずだ。









*









ルルーシュは、おそらく来年本国に帰る。
彼自身がそう言った訳ではなかったけれど、ルルーシュがずっと悩んでいることは知っていた。
ひとつは、ルルーシュが随分熱心に取り組んでいた論文が本国の大学教授の目にとまり、大学の推薦を受けてい ること。
学内推薦などではなく、ルルーシュ個人への推薦だから、彼が頷くだけで全てが決まるのだ。
それを僕が知ったのは偶然で、一学年上の前生徒会長であり、学園理事長の孫であるミレイが教えてくれたからだった。

きっと彼は僕がこのことを知っているとは夢にも思わないだろう。
ルルーシュはそんな話があったことも、まして「行かない」とは一言も僕に告げなかった。
あの時の寂寞とした感情は、正直思い返すのは辛い。

もうひとつは、本国でナナリーの手術が出来る可能性があるということだ。
ナナリーは、目と足に障害がある。
どちらも精神的な理由が原因だから治療は難しいと、何年も言われてきた。
だが今年の春に、彼女の足だけならば本国で治療の可能性があるということが知らされた。

もしも遠く離れた大学の推薦の話だけなら。
危険を伴うナナリーの手術の話だけなら。
どちらか一方なら、きっとルルーシュはあれほど迷わなかっただろう。
だけど何より大切な妹というインクを一滴落としただけで、ルルーシュの澄みきった考えは塗り替えられたはず だ。

悩んでいることも、迷っていることも、知っていた。
美しい横顔が憂いに伏せられるのを、僕は何も言えずにただ眺めていたから。
最近はいつも、考え事ばかりしている。
恋人である自分に何も言わないのが、それ自体彼の答えに思えた。
それに大学推薦の返答が、今学期中でなければいけないらしい。
六月中にさよならを言わなければ、もう彼の手を離せないと思った。

(だって七月になったら、祈ってしまうから)

毎年ルルーシュが準備する七夕の笹飾りには、必ず「ナナリーの目と足が治りますように」と記される。
僕は彼の願い事が叶いますようにと、催涙雨の中で大切な少女のために祈るだろう。
けれどその数日後の僕の誕生日には、ルルーシュの「一番」が欲しくなる。
どんな高価なものより、喉から手が出る程にそれを望んでしまう。
棘のようなかすかなジレンマを、夏に紛らわせたまま笑っていられるのは去年までだ。
今年は、きっともう僕は笑えない。
瞬きをすると、涙袋から幾筋もの涙が押し出された。

(ごめんねごめんね)

澄んだ空から顔を背け、両膝を抱きかかえて顔をうずめる。
天の川を見ていると、淡く光るベガとアルタイルに責められている気がした。

(ごめんなさい、最後までズルくて弱くて臆病で)

本当はルルーシュのためなんかじゃないんだ。
ましてやナナリーのためでもなくて。
ルルーシュが、僕以外を選ぶのを見たくなかったんだ。
見限られるくらいなら、逃げてしまいたかった。
僕が誰より好きなのはルルーシュだけど、僕が何より大切に守ってきたのはいつだって自分自身だと。
嫌というほど知っていた。
今も、最後に見たルルーシュの顔が蘇るたびに胸が押し潰されそうになるのに、自分の行動をどうしても後悔出来ない でいる。
濡れた袖に深く頭を垂れ、こめかみが痛むくらいに奥歯を噛み締めた。

(本当に、ごめんね)

きつく握った手のひらに、もう星は戻ってこない。
いま僕に出来ることは、手放した星がどうか遠くで輝くようにと、ただそれだけだった。

2009/7/16