バイバイパンプキンパイ


 

さあ、生きるために行こう。
さあ、生きるがゆえに、僕は行こう。

















































むせかえるほど匂いたっていた金木犀は、気付くと雨ですっかり散ってしまって いた。
窓の外に覗く銀杏が、日ごと黄金色に塗り替えられていく。
甘くうっそりするような香りの代わりに、スザクは少しだけひんやりと乾いた空 気を胸に吸い込んだ。

「…んー!はあ、疲れた」

もとよりデスクワークの苦手なスザクにとって、朝から机に拘束された状態は拷 問のようにつらい。
今日は人に会う予定もなく、重たく息苦しい仮面をつけていなくて良いだけ格段 に楽ではあったが、秋とは言えゼロの仮面は蒸れるのだ。
ぐっと腕を伸ばして体をほぐすと、ジャケットのポケットからころりと飴玉が転 がり落ちてきた。

『今日誰かにお会いしたら、どうかその方にお渡して下さい』と、朝方にナナリ ーから手渡されたものだった。
小さな飴玉を拾い上げて、どうして彼女から貰ったものをわざわざまた誰かに渡 す必要があるのかと、スザクは改めて首を捻った。

「それに、今日は誰かに会う予定はないしなぁ…」

透明な包装紙でくるまれている飴玉を手のひらで転がす。
陽に透けて、紅い影が淡く落ちた。

「苺味、なのかな?」

つい、苺が好きな誰かに渡せたら良かったのにと思ったことに苦笑した。
誰か、じゃない。
スザクにとってこの飴をあげたい人は、たった一人しかいなかった。

「…ルルーシュ」

苺の飴だけじゃなくて、窓から忍び込む金木犀の香りもあげたかった。
暑さが苦手な彼に、涼しくなって過ごしやすくなったこの空気を。
菫色の瞳で優しく微笑むナナリーを。
彼がいなくなってからスザクの見た、美しく清らかなものすべてをあげたくて。
少しだけ優しくなった世界を、誰より見せたかった人がいる。

会いたい、と呟きそうになって、スザクは慌てて首を振った。
もう会えないと、誰よりも知っているのに。

「…なんか、今日調子が変だな」

とりあえず仕事をしようと、無理に羽ペンを握る。
さすがにナナリーから貰った飴玉を捨てるわけにはいかず、書類の横に置いた。
それにしても、風邪でも引いたのだろうか。
頑丈さだけが取り柄のつもりでいたが、この数ヶ月は色々なことがありすぎた。
風邪くらいは、無理もないのかもしれない。
どれだけ強がっても、悲しいことをすぐ忘れられるわけじゃない。
ひとりの夜は、今でも泣きたいくらい寂しくて、息の仕方も忘れるほど苦しかっ た。
振り払っても消えない優しい面影に切なくなって、とうとう本格的な頭痛まで催 してきた。
スザクは頭から書類に突っ込みそうになるのを堪えながら、なんとか案件を読破 する。

「…これが終わったら、今日は休もう」

簡単に修正案だけ書き加えて、筆を置いた。
あとは神耶にでも任せれば、この件については処理出来るはずたった。
ふらふらと立ち上がり、這いずるようにベッドまで足を運ぶ。
せめて、夢で構わないからなくしてしまった大切な人に会いたい。
ルルーシュは死んでも意地が悪いらしく、いまだ夢の中ですら微笑んでくれない 。

拗ねるように、スザクは柔らかいベッドに顔を埋める。
首周りがきついのでスカーフをゆるめると、ようやく人心地つくことが出来た。
窓越しの明るい日差しの中でうとうとと微睡んできた頃、疲弊したスザクを凛と 冷たい声が鞭打った。

「この馬鹿。ここのスペルはeじゃなくてaだろう」

「んー…そうだっけ?じゃあ君が直しておいてよ…。僕、今日は疲れたんだ…」

「それに、こっちは文法からして間違ってるぞスザク。こんなんで、本当にゼロ が務まっているのか疑問だな」

「もー、だからうるさいってばルルー…、………っ!!」

息を飲んで、スザクは翡翠色の瞳を大きく見開いた。
駄々をこねるように深く布団を被せていた体を、勢いよく起こした。
もしかしたら、自分はすでに眠りについていたのかもしれない。

(ああ、だけど、これが夢でも良いから、僕は)

スザクが書類を投げ出した机の前で、彼はつんと澄まして間違いだらけの書類を 睨んでいた。
彼の声、瞳にかかる艶のある前髪も、石膏のように白く滑らかな頬の稜線も、細 く長い指先の整った爪の形も、記憶にあるそのままの姿だった。

「ルルー、シュ…?」

緩やかに振り返る、少しだけ困ったような表情。
夢でも良い。
ルルーシュに会えるなら、それでも。
だけどルルーシュには笑っていて欲しいのに、彼はますます眉を寄せてしまう。
どうしてそんな顔をするの?と言おうとした喉からは、聞き苦しい嗚咽が漏れる 。
ぽたぽたと、シーツには止まらない水滴が吸い込まれた。
ルルーシュはすべてを許すように優しく苦笑して、スザクのいるベッドまで近づ いた。

「…相変わらず、おまえは泣き虫だな」

「る、ルルーシュ?…本当に?」

「ああ、俺だよ」

思わず手を伸ばす。
けれど記憶に残るひんやりとした皮膚に触れることは叶わず、スザクの手はむな しく空を切った。
よく見ると、ルルーシュは蜃気楼のように儚げだった。
完全に透明なわけではないが、ついさっき手のひらで転がしていた飴玉のように 、差し込む光がうっすらと透けて見えた。

「ゆ、幽霊…?」

「ふ…スザクにしては鋭い洞察力だな。正解だ!」

「正解なの!?」

やっぱり夢なのかもしれない。
大体こんな昼間から幽霊なんて。
足もしっかり二本あるし、情緒もなにもあったもんじゃない。

「なんだその怪訝な顔は。まさか今日がなんの日か忘れたのか?」

「え?」

指さされたカレンダーにつられて目をやると、今日はちょうど十月最後の日だっ た。

「えっと、ハロウィンだっけ」

「ああそうだ。ハロウィンというのはケルトでは死者が家族のもとに還る日とさ れていて、日本でもお盆があるだろう?まあ大体はあれと同じ意味がある。それ から現在仮装などは…(以下延々蘊蓄)」

「待って待って!蘊蓄は良いよ!」

ルルーシュは一旦蘊蓄を披露し始めるとしばらく止まらない。
スザクが制すると、ルルーシュは気分を害したのか、眉根を寄せてむっと微かに 唇を尖らせる。
よく知っている、ルルーシュの癖だった。
途端に、また涙が溢れた。

「…ほんとに、ルルーシュ、だ」

「だからそうだと言っているだろう」

傲慢そうに目を細めるルルーシュが、触れられない手でスザクの頬をなぞった。
呆れたような顔を作るくせに、声がどこまでも優しい。

「疲れた顔だ。ちゃんと寝ているか?ユフィやシャーリーも心配してる」

「…ユフィも?」

「ああ。みんなおまえを心配してるよ。…今日くらいは、弱音を吐いても許して やる」

じわじわと胸が熱くなる。
抱きしめたいのを我慢して、代わりに深く皺が寄るほど、ぎゅっとシーツを握り しめた。
そして、ぽつりぽつりとこの数ヶ月誰にも言えなかったことを呟いた。

「…書類、めんどくさい」

「シュナイゼルにでもやらせろ」

「カノンさんのイヤミで胃に穴が開きそう」

「あのオカマが。俺のスザクに…っ!」

「ゼロの仮面すごい蒸れる」

「…悪かったな」

「それから、」

「ん?」

「…ううん、」

さみしい。
会いたい。
抱きしめてほしい。

そんな傲慢な願いは、けれど声には出せず、スザクはただ俯いた。
それはあっさり見透かされたのか、ルルーシュは微苦笑を浮かべると、触れられ ない手で僕の肩を抱きしめた。
身じろぎすれば解けそうなほど、儚くて淡い抱擁だった。

「スザク」

「うん」

彼の言葉にじっと耳を傾ける。
例えこれが夢でも、ルルーシュが消えてしまわないように。

「…よく頑張ったな」

そっと耳元で低く囁かれた言葉に、また涙が落ちた。
ぽろぽろとこぼれる雫を拭えない代わりに、温度のないルルーシュの手が頬にあ てがわれる。
促されるように、スザクは透き通ったアメジストと目を合わせた。
きっとぐちゃぐちゃの酷い顔をしていたのだろう。
ルルーシュはスザクの顔を見て、少しだけ笑った。

「あまり無理はするな」

「うん。わかった」

「食事は一日三度、必ず食べろ。…少し見ない間に、頬が削げた」

「うん。ちゃんと食べるよ」

「これから寒くなるだろうから、風邪には気をつけろ」

「うん。気をつける」

「あと、書類は見直してから提出しろ。時間があれば勉強もな」

「…努力はする」

「はは、最後のは信用出来ないな」

体温を感じられないのがお互いにもどかしく、誤魔化すように二人で笑い合った 。
それからルルーシュは眩しそうに目を細めると、スザクの瞼に手を翳した。 

「…もう寝ろ。夜更かしはあまりするんじゃない」

「やだっ、だって、君がいるのに…」

「大丈夫。…おまえが眠るまで、ずっとここにいるから」

子供のようにいやいやをするスザクを宥めようと、ルルーシュは子守唄のように 静かな言葉を紡いだ。

「…ちゃんと見てる。だからもう、安心して眠って良いんだ」

「………う、ん」

ルルーシュの優しさに、スザクはそのままシーツの海に沈んだ。
ここのところ不眠症気味だったのが嘘のように、抗いきれない眠気に誘われる。

「…おやすみ、スザク」

愛しい声に名前を呼ばれる幸福に包まれながら、瞳を伏せた。



















      トリックオアトリート。



















意識を手離す刹那、そんな悪戯めいた声を聞いた気がして、スザクは強張った頬 を緩めて微笑んだ。



















*



















懐かしく優しい声音に、スザクは久し振りに安心して深く眠った。
目を覚ましたのは、慎ましく扉をノックする音によって。

「ゼロ、…ゼロいらっしゃいますか?」

ナナリーの優しい声が耳を撫でる。
ベッドにあるぬくもりは自分ひとり分しかない。
淡い抱擁は、幻になって消えてしまった。

(やっぱり…夢、だよね)

それでも構わないと、スザクは起き上がった。
ルルーシュの言ったことは、例え夢でもきっと嘘じゃないから。
頬に残る涙の跡を手のひらで拭う。
そして、うんと伸びをしてから、その手に重たい仮面をとった。

「はい、ナナリー様。どうかなさいましたか?」

「はい。パンプキンパイを焼いたんです。よろしければ、一緒にお茶をして下さ いませんか?」

そういえば、今日はハロウィンだった。
彼女が朝にくれた飴玉も、おそらくハロウィンのためのものだったのだろう。
しかし確かに机に置いたはずの飴玉は、いくら部屋を見回しても見当たらない。
慌てて机にある書類をどけようとして、ふと、いつも散らかし放題の机がやけに 片付いていることに気付く。
恐る恐る、眠る前に書き込んだ不備のあったはずの書類に視線を走らせると、間 違えたスペルと文法が、見覚えのある細く几帳面な文字で直されていた。

「…ゼロ?」

訝しげな声が扉の向こうから聞こえる。
そしてふいに、最近感じていなかった空腹を、ぐるぐると訴えはじめた。
泣きたいのに、何故だか笑いが溢れてくる。





























(ああ、そうだ。僕は、生きてるんだ)





























眠くなったら体を休めて。
お腹が減ったら、いっぱいごはんを食べて。
悲しければ泣くし、嬉しければ笑う。
生きて、いるんだ。





























「…すみませんナナリー様。いま行きます!」









さあ、生きるために行こう。
さあ、僕が望んだ世界に、明日に、思い切り手を伸ばして。
大丈夫、見守ってくれる人がいるなら、きっと、僕は。

- fin -

2008/10/28

来年、きっとまた会いにきてね!