PM5:10


 

夜に愛された少年は、輝く朝に恋をした。
それはまるで、御伽噺のような恋でした。

















































最近、どうやら新聞の配達人が変わったらしい。
らしい、というのも、その姿を俺が確認したわけではないからだ。
しかしほとんど確信を持ってそう思うのは、以前は夜も明けないうちから、それは随分と品のない乱雑な足音を 響かせていた新聞配達が、今月になってから驚く程素早く静かに新聞を投函するようになったのだ。

ちらりと時計を見る。
時刻AM5:07。

「…そろそろ、か」

我が家に新聞が配達されるのは、大体5:10だ。
それも今月に入り、毎日計ったかのようにぴたりと同じ時刻で配達されている。
閉じたカーテンわずかな隙間をそっと覗くと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

この季節は、まだ外は夜色に染まったままだ。
擦れば消えそうな程儚く白い月と、砕いた硝子の欠片のように脆い星屑を想う。
夜明け前の静寂は、何よりも美しい。
朝が来なければ良いと何度も願ってきたが、そろそろタイムアウトだろう。

そうっとカーテンを握りながら、うっとりと目を閉じる。
同時に、玄関からカコンと小気味良い音が響いた。
時計に目をやれば、今日も正確に5:10を指していた。
朝が来たのだと、否が応でも知らせる音だ。
けれど、新しい配達人が夜を打ち壊すその音が、俺は嫌いではなかった。
机に広げたままの本を鞄にしまい、煌々と灯っていた蛍光灯を消して、冷たいベッドに体を投げ出す。
カーテンから漏れる朝陽が少し眩しいと思いつつ、目を伏せた。









*









「おはようございますお兄様」

「おはよう、ナナリー」

「お兄様、昨日は早くに眠れましたか?」

「いつも通りだよ」

笑いながら、席に着いたナナリーの前にふんわりと焼きあげたオムレツを置く。
ナナリーは困ったように曖昧に笑ったが、何も言わずに、ただ「いただきます」と穏やかに手を合わせた。
俺は焼きあがったトーストを二枚、テーブルに運んだ。
やはりいつも通りの朝だった。









不眠症、と言うのだろうか。
数年前から、どうしても夜に寝付けなくなったのだ。
初めのうちは生活のバランスが崩れ、学校もろくに通えない有り様だったが、要領さえ掴めば日常生活は問題な く過ごせるようになった。(要は授業中の居眠りスキルが格段に上がっただけなのだが)

病院で渡された睡眠薬は処方されたその日に飲んだきり、一度も口にしていない。
あれは泥に沈むような深い眠りと、ごく当たり前の日常を約束はしてくれるが、途中目覚めることは決してない。
たった一人の妹と二人きりの生活で、有事の際に兄である俺が眠っているわけにはいかないのだ。
"普通ではない"というレッテルと、最愛の妹の安全を秤にかけた時、あまりに違いすぎる重量の差に天秤は壊れてしまっ た。

薬は、引き出しの中で無意味に増える一方である。









*









ナナリーが寝入ったあとの長い時間は、居眠りをしていたその日授業の勉強から始まる。
教科書以外の内容は、親切な友人が取っていてくれたものだ。
それが終わると、目の前に横たわる途方もない闇にしばし呆然とする。
これだけは、いつまでたっても変わらない。

けれど夜は美しい。
空は澄み、風すら息を潜める。
誰一人いない闇を見つめていると、世界を統べったような心地が、した。

もしかしたら、夜に魅せられたせいで俺は狂ったのかもしれない。
少し口寂しく思え、籠に入ったキャンデーに手を伸ばした時、無粋なサイレンが聞こえた気がした。
このマンションは丘の上に建つ唯一の建造物である上、最上階の角部屋のために見晴らしはすこぶる良い。
ふと好奇心が胸で疼いたので、上着を肩に引っ掛けて、ナナリーを起こさないように玄関を開けた。
丘の下から少し離れた辺りで、オレンジ色の炎が屋根を舐めているのが見える。

「…火事か。最近は雨も降ってなかったからな」

季節柄、空気が乾燥していたのだろう。
幸い、そこまで酷い火事ではないようなので、しばらくすれば鎮火するだろう。
しかしナナリーにも改めて火の元の確認はしっかりするよう、朝食の時にでも言わなければ、と考える。
近所であっても所詮、それこそ対岸の火事だ。
気付けば、空が黒橡から群青に変わっていた。
























「おはよう」
























驚いて振り返ると、新聞を一部だけ持った少年が薄暗闇に静かに立っていた。
また春も遠いというのに、その額には汗が浮かんでいる。
それが誰なのか、問わずとも俺は知っていた。

「はい。君のところが最後なんだ」

新聞に内心慌てて手を伸ばすと、その手には飴玉を握ったままだった。
顔を上げると何故か微笑まれたので、そのまま拳を突き出した。
正面から見ると配達人は、童顔だが自分と同じくらいの年齢に見えた。

「…配達、ご苦労様」

「くれるの?」

黙って頷くと、少年は嬉しそうに飴玉を受け取った。
空になった俺の手には、代わりに新聞が収まっていた。
子供みたいに笑った少年は、そのままうちの正面の階段を駆け下りていった。
彼が向かう先は、白んだ空の下なのだろう。

「ばいばい」

「…ああ」

足音は、やはり素早く静かなものだった。









*









「おはようございますお兄様」

「おはよう、ナナリー」

「ねえお兄様、昨晩火事か何かありましたか?私、夢でサイレンの音を聞いた気がしたのですが…」

「ああ、あったよ、丘の下の戸建てみたいだったな。でも大したことはないみたいだ。
ナナリーも台所を使う時 は火の元を確認は気をつけるんだよ」

「はい、わかりました。…ではお兄様、昨晩は騒がしくて眠れなかったのではないですか?」

テーブルにはいつも通り、カフェオレとふんわりとしたオムレツとトーストが並んでいた。

「…いや、寝たのは遅かったけど、よく眠れたよ」

「まあ、良かったですね!では、いただきますっ」

花が綻ぶようにナナリーは笑った。
いつもとは、何かが少し違う朝だった。









*









その日からも、夜は変わらず長かった。
けれど早く早くって、今までよりずっともっと心が急いだ。
5:00になったら上着を羽織り、俺は白い息を吐いて、必ず玄関前で配達人を待った。
5:10に、焦がれた。



















「おはよう」

「…おは、よう」



















「はい、今日の新聞」

「ありがとう…」



















「おはよう。今日も寒いね」

「半袖のお前に言われたくないがな」

「風邪引かないようにね」

「だからお前にだけは言われたくない」



















「おはよう。あ、ダメだよそんな薄着で。風邪引いちゃうよ」

「おまえこそ…濡れてるじゃないか」

「大丈夫、新聞は濡れてないよ。はい」

「馬鹿。タオル持ってくるから待ってろ!」



















「おはよう。はい、新聞」

「…これ」

「おにぎり?」

「やる」

「僕に?」

「…っ、他に誰がいるんだ。い、要らないなら別に…っ」

「ううん、すごく嬉しい。僕ちょうどお腹減ってたんだぁ。ありがとう」

「………どういたしまして」



















「じゃあね」

「…もう行くのか?」

「ごめんね、今日は自転車の鍵掛け忘れちゃったから、もう戻らなきゃ」

「自転車…?おまえあんなものに乗って配達してるのか!?」

「だって僕、免許持ってないもの」

「だからってあんなもの…っ、風で倒れるような乗り物じゃないか!」

「はは、漕いでたら倒れないよ。もしかして君、自転車乗ったことないの?」

「うるさいっ」

「じゃあそうだ、今度僕のうしろに乗せてあげるよ」

「断る!」

「自転車って、すごく気持ち良いんだ」

「だ、だから俺は断ると…!!」

「きっと君、新聞より軽いよ」

「話を聞け!!!!」



















「おはよう。空、大分明るくなったね」

「ああ、でもやっぱり、朝は冷えるな」

「そうだね。じゃあ、おやすみ」

「ああ。…また明日、」



























配達人は夜明け前に一人玄関前に佇む変わり者の俺に、毎朝笑いながら新聞を手渡した。
少しずつ、俺たちは会話をするようになった。
会話は、早朝の静けさを破らないように、いつも囁き声だった。

それから時々、朝食を作るついでに彼に握り飯やサンドイッチを持たせてやった。
そう、あくまで、朝食のついでだ。









*









「おはよう」

「…おはよう」

「あはは、今日休刊日だよって昨日言ったじゃないか」

「良いんだ。どうせ眠れないからな。おまえこそ、今日は休みなんだろう?」

「うん、あのね、今日は君に言うことがあって来たんだ」

「言うこと?」

それは丘の下で火事があった、つまり配達人と初めて口を利いたあの日から、数週間たったある日のことだった。
手ぶらのままの配達人が、俺の前に立っていた。
俺は彼から視線を外し、空を見た。

AM5:10。
金色の蜜が細く細く零れるような朝陽だ。
何故だか彼の話を聞きたくなかった。
朝が来るのを、俺は恐れていた。

「僕、配達の仕事は昨日で終わりになったんだ」

「…なん、で」

「んー。今度会ったら教えてあげる」

「…っ、今度、なんて…!」

あるわけが、なかった。
きっと、夜でなければ彼に会えないのだ。
すでに階段を降り始めた無情な背中に縋るように、俺はみっともなく声を絞り出した。
踏みとどまることはなかったが、振り向いた配達人は優しげな常盤色の瞳を、眩しいものを見るように細めて、言った。

「大丈夫。きっと、すぐにまた会えるから」

だけど俺は、配達人の名前すら知らないのだ。









*









「おはようございますお兄様」

「おはよう、ナナリー」

その朝のカフェオレは、随分と苦かった。
トーストの端は少し焦げ、オムレツは崩れてスクランブルエッグへの変更を余儀なくされた。
見るからに凄惨たる朝食だったが、いつも通りナナリーは「いただきます」と穏やかに手を合わせた。

「お兄様、昨日は早くに眠れましたか?」

「…いつも通りだよ」

いつも通りの朝だった。
だけどそれが酷く、悲しかった。









*









普段は新聞を受け取ると、一時間程度仮眠を取っていたが、今日はその仮眠すらままならなかった。
鳥が目覚め、人が動き出し、空が青くなるまで、ただずっと窓の外を見ていたのだ。
そのせいか昼間の眠気には堪えられず、授業中に初めて机へ突っ伏して眠ってしまった。
気付いた時には既に放課後で、しかし体が鉛のように重く、友人の声に返事をするのも億劫だった。

「ルル、…ルル?大丈夫?具合悪い?」

「…大丈夫、だ」

「でも…、」

「少し休んだら帰るから、心配ないよ」

大丈夫だから、と繰り返し、最後まで側にいてくれた友人も教室を出て行った。
俺は有言不実行で、そのまま吸い込まれるように眠ってしまった。









無理な姿勢で眠りが浅かったのか、珍しく夢を見た。
配達人の夢だった。
あの優しい足音を、随分久し振りに聞いた気がする。
彼は知っていただろうか。
あんなふうに朝が来るなら、それも良いかもしれないと俺は思ったんだ。





























「僕の学校には『眠り姫』って徒名の生徒がいるんだ。
その人を初めて見た時、彼は名前の通り教室でぐっすり 寝てた。でもね、その横顔がすごく綺麗だったんだよ」





























耳元で、俺の求めてやまない声がした。
さっきから、どうも都合の良い夢を見る。
彼の夢、ばっかりだ。

「ねえ、起きて?それとも本物のお姫様みたいにキスしないと目が覚めないの?」

うるさい。誰が姫だ。
大体、耳元で笑うな。
くすぐったくて仕方がないじゃないか。

額にかかる髪の毛がかきあげられる。
ちゅ、と小さく音がした。
柔らかい感触に、俺はようやく飛び起きた。




「おはよう」




前の席に跨って俺の机に頬杖をついたそいつは、俺と同じ制服を着ていた。
額を両手で押さえて目を白黒させる俺を、彼はおかしそうにクスクス笑って眺めている。


「新聞配達はね、怪我した友人の代理だったんだ。
でも本当に驚いた。まさか『眠り姫』の家の担当エリアだなんて知らなかったし。
ましてや学校じゃいつも寝てて、喋ってるところなんて見たこともなかった君と話しが出 来るなんて、思ってなかった。
そうそう、今日気付いたんだけど、ルルーシュは僕の名前知らないんだよね?
ごめんね、自己紹介もしなくて。僕は、枢木スザクって言うんだ。隣のクラス。
君は寝てたから知らないだろうけど、火曜日と金曜日の選択クラスは一緒だったんだよ」


うるさいうるさいうるさい。
べらべらと勝手に喋ったって、内容が頭に入りやしない。
そんなこと、どうだっていい。
どうだっていいんだ。



「………じてんしゃ」

「うん?僕の?」

「うしろ、乗せてくるれるんだろう?おまえの、自転車」




乗ってやってもいいぞ、と。
俯きながら、俺はそれだけをようやく伝えた。
一瞬、彼は大きく瞬いて、それからとろけるように相好を崩した。

スザクの頬が、薔薇色に染まる。
それは月明かりでも朝陽でもなく、教室に差し込んだ一条の夕陽だった。

- fin -

2009/1/27

仰せのままに、マイスイートプリンセス。