エンプティ・イエロー


COLORS

黄色いバケツを泳ぐ魚は、夢を見る。
大切な人が、どうかずっと笑っていられますように、と。
馬鹿げた願いは、そう、真夏の特権なのだから。


















































夏の朝靄と、目覚めたばかりの蝉の声が、スザクはとても好きだ。
空は沁みるほどに青く、今日も暑くなると告げていたけれど、
晴れた朝な決まって胸が踊った。

スザクは夏休みはいつも、早起きしてはこの小川へとやって来る。
今朝は五匹も釣れたから思いきり自慢してやろう、と紅い頬を緩めた。
本当は、一緒に釣りをしたいのだけど、彼はひどく朝に弱いのだ。

「…そろそろ、帰ろ」

もうだいぶ陽も高い。
さすがに彼も起きる頃だろう。
スザクはバケツと釣り竿を抱えて、帰路へと向かった。

小川から家までの帰り道は鬱蒼とした山道で、柔らかな腐葉土に濃く影を落としていた。
一歩土を踏みしめるたび、夏の匂いがするのをスザクは楽しんだ。









彼――ルルーシュ――がうちに来てから、もうひと月が経った。
自分だけのものだった秘密基地にルルーシュが住んでいることにも、すっかり慣れた。
むしろ、もっとずっと傍にいたい。

スザクにとって、難しい理屈ばかり並べるルルーシュは不可解で仕方がない。
不思議だけれど、その存在に、確かに惹かれた。
この黄色いバケツに踊る、この魚を見たらルルーシュは何を言うだろう。

「…笑ったら、良いのに」

眉間に皺なんか寄せないで、ただ笑っていれば嘘みたいに綺麗な顔をしているくせに、 ルルーシュは滅多に笑わない。

「もったいねーの」

日が昇り、すでに騒がしいほどになった蝉の声に、スザクの呟きは小さく消えた。









不意に、風が変わった。
真っ直ぐに輝く日差しは、まとわりつくような不快さに。
慣れた蝉の合唱はただ耳障りで。
澄んだ森の空気に噎せかえる。
期待に膨らんでいた胸が、やけにざわついた。




「ルルー、シュ…?」




深い緑の影にちらつくのは、紫苑の幻。
心の示す方向へ従って、スザクは飛び出すように駆け出した。
バケツが傾いて、飛沫が膝に跳ねる。
勢いをつけて倒木を一足で踏み越えた。
息が弾んで汗が顎を伝うのに、心臓のあたりが馬鹿みたいに冷えていた。

目を耳を、肌を。
五感のすべてを使って、スザクは不穏なざわつきの原因を探した。
嫌な予感というものを、スザクは外したことがないから、殊更急いた。
どうかどうか、と祈る対象すら知らぬまま胸の中で繰り返す。









「この、ブリキ野郎っ」

その時、遠くで小さな罵倒が聞こえた。
スザクは全身のバネを使って、踏み出した。
少しだけ視界が開けたのは、以前落雷のあった場所だったからだ。
そこに、彼はいた。
スザクをそのアメジストに映し込むと、ルルーシュは瞳を見開いた。

「スザク…っ!」

ルルーシュを見つけた安堵は、けれど激しい憤りに変わる。
ルルーシュの白い頬には、赤黒く腫れた痣があった。
多分、痣があるのは頬だけではない。
一方的な暴力なのは、明らかだった。
泥の付いた白いシャツに、スザクの何かがぶちりと音を立てて切れた。

「おまえら、何してんだよっ!?」

ぎり、と眦を吊り上げて睨み据えるのは、ルルーシュを囲む三人組。
多分、近所の高校に通っている奴らだと目星をつける。
ルルーシュは多分何かした訳じゃない。
力がない分、ルルーシュは馬鹿じゃない。
喧嘩を売るにも買うにも、勝てる相手か、もしくは必勝の小細工を弄しているときだけに限るのだ。

「スザク!おまえは帰れっ!!」

ルルーシュの厳しい叱責も、スザクの耳には入らない。
ひたすら、上背だけはある相手から目を逸らさずにいた。

「何だ?おまえ」

ルルーシュはブリタニア人だ。
それが日本においてどれほど疎まれることか、スザクが一番良く知っている。
だけど、こんなのは卑怯だと拳を震わせた。

それに何より。



















「こいつは俺のもんだ!! 汚い手で触るな―――――――!!!!」



















蝉の喧騒すら一瞬黙すほどの大声で、スザクは吠えた。

「な…っ!」

実に不本意そうに声を上げたのは、ルルーシュだけだった。
他の三人は、スザクを見ると目を細めて嘲るように息を吐いた。
「おいガキ。日本人の癖にブリキに肩入れするのか」

ルルーシュの腕を掴んだままの男が口を開いた。

「ブリタニアの味方なんてしてねえ!ブリキなんて大嫌いだ!! 俺はただ、ルルーシュに触るなって言ってるだけだ!!!!」

「…意味わっかんねー」

「だな」

「生意気言ってんじゃねえよ、クソガキ」

三人の肩を竦める仕草に、ひどく苛立つ。
唐突に、それまで無抵抗だったルルーシュが、相手を振り切る仕草をした。

「良いからおまえは帰っていろ!スザクには関係ない…っ」

「うるせーよ、ブリキ野郎。黙ってろ」

ルルーシュの眉間の皺が、深く刻まれる。
掴まれた腕が、更にきつく捻られたみたいだった。
頭の中で、また糸が焼き切れる。

「…っ!放せって言ってるだろ!!」

スザクは剣道の試合においても、大人と対等に戦えると自負していた。
だから、相手が誰であろうと怯まない。
それが例え、どんなに無謀でも。
狙うのは、ルルーシュを拘束する相手だけだ。
けれど振り上げた拳は、蠅でもあしらうかのように他の二人に落とされた。

「百年はえーんだよ、ガキが」

「ブリキ野郎の言う通り、おまえ、関係ないだろ」

三度、スザクの堪忍袋の緒が破裂した。

「おまえらそれでも日本人か!?一対三だなんて、卑怯だ!
ブリタニアが嫌いならそれでも良いけどな、ただ鬱憤を晴らすのにルルーシュを 使うんじゃねえ!!恥を知れっ!―――この…弱虫がっ!!!!」

「…ンだと?」

相手の中で見るからに一番血気盛んな男が、スザクの最後の一言に纏う空気を一変させた。
顔を俯け、肩を揺らす。

「はは、おまえの言う通りだ。こんなのただの憂さ晴らしさ。 けどな、だったら相手はおまえでも構わないんだぜぇ?」

「だったらそうしろよ! ガキだと思って痛い目見るのはおまえだからな!!」

「…はっ、バーぁカ」

トン、と背中を押された。
他の奴のことをすっかり失念していたことに舌打ちする間につんのめり、正面の 男にぐっと胸倉を掴み上げられた。

「陳腐な正義より、年上に対する礼儀のが大切なんだって、ここで覚えやがれ」

男の口の端に浮かんだ歪んだ笑みと、堅く握られた、 自分のものより大きな拳を見て、とっさに目を閉じた。

痛みを覚悟した暗闇の中で耳にしたのは、絶対零度の低い声だった。













































































































「いい加減にしろ、この馬鹿共が」













































































































え、と思う暇もなかった。
目を開けた時には、場違いなくらいキラキラと。
すべてが、輝いた。





























「うわっ!」

「冷たっ…!!」

「ひっ!」

頭から降ってきたものに、その場の全員が目を丸くした。
カラン、と軽薄な音を立てた方では、スザクがいつの間にか手放していた、黄色 いバケツが転がっていた。
地面の上では無残にも、釣ったばかりの魚が跳ねていた。
水浸しになった四人に対して、ルルーシュが微動だにせず腕組みしたまま立っている。

「よく聴け」

誰かが抗議の声をあげるより先に、流暢な日本語が空気を支配した。
ルルーシュは、夏場の蝉すら黙らせる威圧感をもって、口を開く。

「俺に対して何をしようが、誰も文句は言わないだろう。
だが、おまえたちが殴ろうとしているのは、日本国首相・枢木ゲンブの息子だと知っての狼藉か? それから、俺は枢木の家に世話になっている。 ―――それがどういうことか、理解出来るか?」

唇が切れて僅かに血の色を残す様が、やけにルルーシュを艶やかに見せた。
細められた紫の瞳が、問題にされたくなければ早く立ち去れ、と雄弁に語っている。
それは微笑にすら似て、寒気のするほど美しかった。




「…おい、玉城」

「………わぁったよ、はっ、親が有名だとガキは楽で良いよな!…行くぞ」

爪先立ちになる形で襟を掴まれていたスザクを突き飛ばして、 三人は不満そうに離れて行った。

尻餅をついたスザクは、見えなくなるまでその背中を追った。
去り際の台詞は、スザクにとって痛いものだったけれど、 その時頬に走った痛みの方が、余程鋭かった。

「…っ!!いってぇ!」

座り込んだままでいたスザクの頬を、ルルーシュが打った。

「…こ、の馬鹿!!
帰れと言ったのに何故俺の言うことを聞かない!?相手が三人もいるのに、どうしてあんな無茶をした!」

そのまま肩を掴み、耳が壊れるほどの大音声で叫ぶ。
スザクは普段荒げたところを聞いたことのないルルーシュの声にに驚いて、ただ呆然としていた。
ルルーシュの息が整う頃になってようやく、守られたのは自分の方だと知る。
悔しくて情けなくて、涙を堪えたら鼻が痛んだ。




「ごめん」




役に立たなくて。
おまえを守ることすら、出来なくて。




「……ごめ、ん」




ルルーシュの目を見ながら言うにはつらすぎて、何も出来なかった手のひらを睨 みながら、スザクは言った。
ここで泣いたら、本当に何も出来ない子供に思え、必死に喉のあたりに力を入れ て泣きそうなのを我慢した。

「…俺も、悪かった」

頬に差し伸べられた手に、思わず顔を上げた。
痛そうな顔をしたままのルルーシュを見て、して欲しかった顔は、 こんなじゃなかったのに、とスザクはきつく唇を噛んだ。

「怪我はないか?」

怪我が痛むのは、ルルーシュの方に決まっているのに。
だって、自分は何一つ出来なかった。
それでも優しいルルーシュの問いにこくりと頷くと、途端にボロボロと涙腺が決壊した。
何故だか、ひどく胸が痛い。

「………ばかスザク」

ふっ、と微苦笑を浮かべるルルーシュを仰いで、スザクは思った。









(―――――――ああ、やっぱり・・・)











































































































































ルルーシュは、笑っている顔が一番綺麗だ。

- fin -

2007/12/27