ハロー・チェリーブロッサム


FLOWERS

こんなふうに走ったのは、それこそスザクと過ごしたあの夏以来かもしれない。
ようやく鞄を取り戻し、ルルーシュは疲労のためにぐったりとガードレールに凭 れかかった。

「はぁ、は…」

ルルーシュは乱れに乱れた息をなんとか整える。
こちらが必死なのを馬鹿にするかのように散々翻弄した猫は、追いかけっこに興 味がなくなったのか、欠伸をした弾みで鞄を落とすとそのまま飄々と去っていた 。

「あの、馬鹿猫…っ」

思わず悪態を吐いたのは、ここがどこだかを遅蒔きながら認識したからだ。
トーキョー租界の中でも大きな規模にあたる、ナンバーズの市街地、新宿ゲット ー。
ブリタニア人、ましてや女性が一人で出歩くには危険な地域だ。
あの黒猫を追い掛けていて気付かなかった自分も迂闊だが、悔やむよりは早く租 界に戻り、本来の目的に戻りたい。
とりあえず来た道をそのまま引き返そうと踵を返す。
その時、不意に心臓が乱れた。

「…っあ、」

通り過ぎる一つの人影。
目の端にふわりと流れた、柔らかな髪。
胸が苦しくなる。
息が出来ない。
周りの景色が、紅茶に落とした角砂糖のように崩れて溶けていく。
記憶にある姿よりずっと凛とした背筋。
敏捷そうな長い手足。
意志の強さを表すように引き結ばれた赤い唇。
今この瞬間、ルルーシュの世界で唯一輪郭を保つのは、彼女だけだった。
なのに足が竦んで、動き出せない。

「…っ!スザク!!」

気持ちばかりが急いて、もどかしさに涙が出てしまいそうだった。
引き止める声に、少女は躊躇うように足を止める。
ゆっくりと振り向いた大きな翡翠色が瞬いて、

「…ルルーシュ?」











































風が、吹いた。











































次いで、春風とは違う叩きつけるような熱風が吹きすさぶ。
耳に届いたのは爆発音と、人の悲鳴、破壊音。

「な、何だ!?」

反射で振り返ろうとしたら、強く手首を引かれてそのままスザクに地面に押し倒 された。
頭部は押し倒した本人に庇われたため何ともなかったが、肩甲骨がひどく痛んだ。
スザクはルルーシュを抱き締めるように覆い被さっていて、スカートから剥き出 しになったお互い素足が当たる。

「スザク、何…?」

「…大丈夫、ただのテロだよ。じっとしてて」

耳元の優しく熱い吐息に、混乱と緊張に強張っていたルルーシュの体が弛緩した。
柔らかな乳房に押さえつけられることより、懐かしいスザクの匂いに胸が苦しく なる。
スザクはルルーシュを庇いながらも身を捩ると、シャツの襟を引き上げた。

「こちらF地点、枢木一等兵。テロ発生しました。民間への被害はAレベルです が、テロリストは爆薬を所持している模様。…恐らく素人の作った火炎瓶です。 自分は負傷したブリタニア人の救助に回ります…はい、了解です」

見れば耳にも小さなインカムが付いている。
スザクは通話を終えると、ベルトにある本体を探りスイッチを切ってしまった。
爆音が離れたことを確認して、スザクはわずかに身を起こした。

「ルルーシュ、怪我はっ?どこも怪我してない!?」

「ああ…大丈夫、だ…」

「よかった。よか…っ」

言い様、骨が軋むほどに強く抱きしめられた。
ルルーシュは美しい翡翠が飽和した水分で歪むのを、見逃しはしなかった。
訊かなければならないことがたくさんある。
伝えたいことも、一夜では足りぬほど。

けれどルルーシュは何も言えないまま、しがみつくようにして華奢な肩を抱き返した。
ずっとずっと望んでいた体温がここにある。
ただそれだけが嘘みたいに幸せで、このまま抱きしめていてくれるなら、死んで もいいと本気で思ったのだ。

- fin -

2008/9/22