FLOWERS
ひとつ約束を違えることを赦して。
いつか必ず、王冠を手にして私は貴方のもとに帰るから。
皇暦2010年夏、神聖ブリタニア帝国が日本への武力侵攻を開始。
戦闘機が空に見えた時、私とスザクは二人でシロツメクサで花冠を作っていた。
ナナリーへのプレゼントだった。
向日葵の丘で、私は空を裂く飛行機雲を、スザクは大地に落ちる黒い影を見ていた。
私は父と国に、捨てられた。
そしてスザクも、戦争が始まって間もなく疎開させられたことで、父に見限られたのだと知った。
女児は戦争にも政にもいらぬ、と言い捨てられた。
それがどれだけスザクを傷つける言葉か知りもしないで。
「…大丈夫、スザクには私とナナリーがいる」
ただ父の役に立ちたかった少女は、私の言葉だけで崩れそうになる膝を支えていた。
本当は、愛されたかっただけだ。
私たちは何も出来ない10歳子供だった。
唯一出出来ることは、汚れた靴の爪先を見つめながら歩くことだけだった。
花冠を作った花畑も、家も、そして人も、すべてが焼けた。
子供を中心にした疎開先があるという噂を聞いて、私とスザクは車椅子のナナリーを連れてその道を歩いた。
足が痛くて、暑さで頭痛がした。
長い髪がうっとうしかったけれど、縛るものもなくて力なく首を振るしかなかった。
疲労から、注意力が散漫になっていたのだろう。
ナナリーの乗る車椅子の車輪が瓦礫を噛んでしまった。
「あっ、」
「きゃあっ」
私の細い腕では浮いたハンドグリップを押さえきれなかった。
足の不自由な妹の腰が浮いた。
羽根のように軽いから簡単に落ちてしまう。
そんなこと、わかっていたはずだったのに。
ナナリーが怪我をする、そう思った瞬間、動くより先に恐ろしさで鳥肌がたった。
「危ない!」
放り出されるナナリーを支えてくれたのは、スザクの両腕だ。
しっかりと抱きとめてくれていた。
それを確認して、止まったように思えた心臓が急に激しく音を立てた。
「大丈夫?ナナリー」
「はい、ありがとうございます、スザクさん」
「ああ、良かったぁ」
「ふふ」
「どうしたの?ナナリー」
「あのね、お母様が教えてくれたんです。『どんな時も、差し伸べられる手はあるから』…って。いま、本当だって思ったら、なんだかおかしくなっちゃいました」
スザクは膝を擦り剥いていたし、ナナリーは思わず出した手のひらに怪我をしていた。
それでも大事なかったと、安心したようにふたりは笑っていた。
思えば、笑顔がこぼれたのはこの道中で初めてだったかもしれない。
けれど私だけは笑えなかった。
がたがたと体中が震えて、その場にへたり込んでしまう。
唇と指先が感覚もないくらいに、異常に冷たかった。
張り詰めていたものが千切れて、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「…ルルーシュ?」
「お姉さま、私は大丈夫ですよ、ほら」
私を安心させるように見せた二人の笑顔に、私は堪えきれずに歯を喰いしばったが、それでも嗚咽が止められなかった。
ナナリーは優しい子だ。
戦争にどれだけ心を痛めているか知れない。
それでも私やスザクに心配させないよう、どれだけ不安でも決して涙は見せなかった。
スザクは父に捨てられた時も、先日その父が自害したと訃報を受けた時も、気丈に振舞った。
泣き虫だったスザクも、戦争が始まってからは決して泣かなかった。
私は弱い。
私だけが弱い。
スザクもナナリーも、本当はずっと私より強い。
知っていた。わかっていた。
ナナリーを守るも誓っても、スザクを愛していると言葉にしても、誰より私が無力だ。
認めたくないから目を逸らしていただけだ。
「お姉さま?」
「大丈夫だよナナリー。ルルーシュはちょっとびっくりしちゃっただけだよ。ね?疲れちゃったんでしょ。ナナリーの車椅子は僕に任せて良いよ」
スザクは「ゆっくり歩こう」と明るく言って私の頭を強く抱いてくれた。
嗚咽を奥歯で噛み殺しても、どうしようもなく漏れる不安定な吐息ごと、強く。
陽だまりのようなスザクの匂いに安心して、余計に涙が溢れた。
私はそのあたたかな腕にぎゅっと顔を埋める。
(ああ、なんて、弱い)
胸をしんと冷やすかすかな絶望に、最後の涙が一筋頬を伝った。
*
疎開先はまだ地上戦の傷痕の見られない土地だった。
夕方の食糧配給を終えると、三人はシェルターの代用となっている建物のすぐ近くの野原で涼むことが日課になっていた。
ナナリーは疲れているせいか、私の膝でそのまま寝てしまった。
柔らかく流れる髪の毛を梳きながら私は空を見た。
日中の日差しは強く、まだ暑いけれど陽が落ちるのは少しずつ早くなっていく。
いつかすべてが暗闇になるのではないかと、あり得ないことを考えては怖くなる。
三人が秘密基地のように通う野原は、少し枢木神社の雰囲気と似ていた。
ただ、向日葵もシロツメクサも戦火は逃れたものの、季節を終え茶色く干からびて枯れてしまっていた。
「…シロツメクサ、もう枯れちゃったね」
「そうね」
「ナナリーに花冠、あげたかったな」
「…また、来年作りましょう」
寂しくなったクローバーの野原を見てスザクは残念そうに呟いた。
ナナリーに花冠を作ると言い出したのはスザクだった。
『幸福』の花言葉を持つクローバーがナナリーを守ってくれるようにと、彼女は花を編んだ。
不器用な指が愛しくて、私はシロツメクサの持つ別の花言葉も知っていたけれど、それは口にしないことにしたのだ。
にわかにシェルターが騒がしくなったようだった。
不思議に思っているととうとう外にまで響く騒ぎになった。
所々声を拾うと、どうやら招かれざる部外者が来訪した、という内容のようだ。
シェルター生活の中で顔見知りになった年配の女性が一人顔を出して、困ったように私を呼んで手招きした。
スザクやナナリーもいる中で何故私なのかがわからないまま、寝ているナナリーをスザクに任せて立ち上がった。
スザクは一緒に行こうとしたけれど、それは制した。
「でもルルーシュ、」
「大丈夫、何かあれば絶対にスザクを呼ぶから。ナナリーをお願い」
一人で急ぎシェルターに向かうと、正門で誰かが言い争いをしているらしい。
私は裏口からそっと中に入った。
シェルター内には疎開してきた女性や子供がほとんどで、彼女達は戸惑うようにして壁際にまとまっていた。
声をあげているのは、シェルターで生活している数少ない男性陣だった。
武器と呼べるほど立派なものではなかったが、手にはそれぞれ得物が握られている。
彼らの大きな背に隠れて、来訪者は見えない。
「何故ブリタニアなこんなところまで、」
「誰か、軍を呼べ」
「追い出せ、早くここから追い出せっ!」
近くで聴き取りやすくなった騒ぎも不穏な単語ばかりだ。
対応しているのは成人男性ばかりで、自分が呼ばれた理由がますますわからなかったが、その激しい喧騒の中に懐かしい声を聞いた。
「ですから私は軍の者ではありません…!義妹に、ルルーシュとナナリーに会わせてくださいっ」
「…コーネリア、義姉様?」
「ルルーシュ!!」
壁になっていた人垣が割れて彼女の姿が見えた。
駆け寄ってくるその人の鮮やかな紅色の髪が靡く。
コーネリア・リ・ブリタニア。
ルルーシュとナナリーにとっては仲の良い腹違いの義姉だった。
年若くして軍を指揮し、弱冠二十歳で近年目覚ましく成果を発揮している。
ただ、今目の前にいるコーネリアは、見慣れた軍服でも、公的にドレスアップした衣裳でもない上、傍目にも疲労が色濃いことがすぐにわかる。
すぐには本物の義姉であるとは信じられなかった。
「ああ、良かったルルーシュ、ルルーシュっ!」
「お、お義姉様どうして?痛い、痛いですよ…」
肺が潰れるほどきつく抱き締められて、ようやくそれが現実だと判断できた。
先程までの取り乱した声はすっかり落ち着いたようで、深く息をしたことが布越しにもわかった。
輪郭を確かめるように撫でて、私を庇うように腕を広げて改めて周囲を見回した。
「…突然押し掛けたことは謝罪いたします!私は神聖ブリタニア帝国第2皇女、コーネリア・リ・ブリタニア。申し上げた通り、私は本日こちらに参りましたのは軍事目的ではありません!我がブリタニアと日本国は開戦に至りましたが、貴国に留学していた皇女二名に罪はありません!私はルルーシュ・ヴィ・ブリタニアと、ナナリー・ヴィ・ブリタニアの両名を帰国させることだけが目的です!!」
一言一言に力ある声だった。
気圧されたように、日本人が一歩引く。
「…もちろん平和的にです。従者はいますが、外に待機させている私個人の部下が二人だけ。
私も彼らも武器は持っていません。確かめても構いません。
繰り返しますが、私は国政に関わらず、私の一存で義妹達を迎えに来ただけです。…どうかお願いします」
戦場での容赦のなさから“魔女”と噂されるほど、いつでも凛々しい女性だった。
そのコーネリアが頭を下げ、人に懇願する姿を私は初めて見た。
もちろん日本人も、大国ブリタニアの皇女がそのように振る舞うとは思っていなかったに違いない。
シェルターの人々は耳打ちし合い、やがて武器を下ろした。
人々の雰囲気から、このシェルター以上の大事にはならないようだった。
今後のことについて話し合うということで、コーネリアとルルーシュにはわずかな時間シェルターの一室が与えられた。
戦争が始まってから、シェルターの住人はルルーシュとナナリーをブリタニアに捨てられた皇女として、同情的に篤く接してくれていたが、均衡が崩れた今、与えられる慈悲は今夜限りになるだろうと悟った。
もう陽は完全に落ちただろうか。
「ルルーシュ、ああ、本当に、無事で良かった…。怪我はないか?日本人には何もされていないな?ああ、そうだ、ナナリーも大丈夫か?」
「コーネリアお義姉様…っ。私もナナリーも無事です。ナナリーは今は外にいますが安全です。…それより、護衛も付けずどうしてこんなところにっ、」
「決まっている、おまえたちは私の大事な妹だ!日本への武力介入が決まって、私が…私やユフィがどんな思いをしたと思っている!」
「お義姉様…」
「助けに、来たんだ!国が…お父様が、いくらおまえたちを見捨てようとしても、私が絶対にそんなことさせない…っ!」
コーネリアはまっすぐ私を見て叱責した。
私の肩に置かれた指に力が入る。
「ブリタニアに帰ろう、ルルーシュ」
短い言葉の言外に、私が守るから、と聴こえた気がした。
父に捨てられてから、本当はずっと私が欲しかった言葉だ。
義姉の誠実と実直が胸に刺さる。
それでも私は首を横に振った。
「っ、ルルーシュ!」
「違います、違うんです。お義姉様!コーネリアお義姉様が来てくださって本当に嬉しかった…!本当です、だけど、だけど私は日本に残ります。残らなくちゃ…っ」
ブリタニアでの立場や、他のことなんてどうでも良かった。
どちらにしても、私とナナリーが平穏に暮らせる未来が想像出来なかった。
どうにか後ろ盾を得て、亡命することが今のところ最善の策だと考えていた。
何の力もない私がナナリーを守るためには、もうそれしか出来なかった。
そして何より、日本に残る理由があった。
「…スザクを、一人になんて出来ない」
子供じみた言い分だと自分でも思う。
馬鹿げた言い訳にコーネリアはすぐ反論はせず、唇を噛んでじっと考え込んだようだった。
しばらくは沈痛な面差しを私から隠すように額を押さえていた。
再び顔を上げた時はいつも以上に毅然とした瞳をしていた。
「…枢木スザク。日本の首相の一人娘だったな。今は、元首相か」
「はい」
「ルルーシュ。賢いおまえならわかるだろう。この戦争はじきに終わる。それも先日枢木首相が自害したことで、早急に事は収まる」
「…はい、わかっています。だけど、私は二人を、ナナリーとスザクを守りたい」
「甘えるな!!」
痛罵とともに手が飛んできた。
頬を打つ手は戦士のものだけあって重く、私は勢いで壁伝いに倒れ込んだ。
見上げた義姉の顔には悲憤が滲んでいた。
「守りたい?ルルーシュ、笑わせるな!」
「…」
「おまえは弱い」
「………っ」
静かに言われた言葉に私は反論出来るはずもない。
涙が滲む。
俯いたら床に雫が零れた。
コーネリアは濡れた床に膝を折り、ルルーシュの顔を無理矢理上げさせた。
「もう一度言う。ルルーシュ、おまえは弱い」
「…」
「今のおまえでは、友人どころかナナリーも救えやしない」
彼女の言葉が虚勢まみれの私を抉っていく。
崩れた破片が私の隠していた内側をざくりざくりと切り裂いていった。
嗚咽すら、もう隠せない。
声をあげて泣いた。
それでもコーネリアは下を向くことを赦さずに、ぐちゃぐちゃになった私の瞳をひたと見つめていた。
「だから、強くなれ」
静かに、強く、言った。
「強くなるんだルルーシュ。すべてを守りたいと思うなら。その術を、私が与えてやる」
「…つよ、く……?」
「今、逃げるな。日陰に生きることを選ぶな。戦略を覚えろ。戦術を磨け。下を向くな、戦え。命を懸けるからこそ、誰かを守る権利があるんだ」
コーネリアは私を強く抱き締めた。
痛いだけではなく、あたたかな抱擁だった。
「…おまえは私に似ている。そして私以上に聡明だ。必ず強くなれる。気高き戦士であったマリアンヌ様のように、きっとなれる」
「お、お母様みたいに…?」
「そうだ。私に強くなれと言ってくれたのは彼女だ。
今度は、私がおまえを誰にも負けないほど強くしてやる。ルルーシュ、おまえの力なら王冠にだって手が届くかもしれない」
「…だけど、だけどお義姉様…っ」
「…っ、ごめん、私にも今はルルーシュとナナリーを守る力しかない。…それは本当にすまない。だから、おまえが欲しいものは強くなって、自ら奪い返しに来るんだ」
打たれた頬が熱を持って痛い。
コーネリアの覗かせる、最後の僅かな弱さが余計に私を苦める。
第二皇女は決して自由な身分ではない。
敵国へ単身で乗り込んで、危険も罰もあることをわかっていながら来てくれた。
誰の庇護も受けたくない矜恃さえ捨てられたら、私は迷わずその背中に縋りつきたかった。
この後に及んで躊躇う自分を胸中で嗤った。
コーネリアは、今はスザクを諦めろと言う。
そして必ず取り返せと。
力は与えるからと。
けれどその選択肢は酷すぎる。
一人で抱える絶望より、コーネリアの与える希望の方が余程痛かった。
光が眩しすぎるせいだ。
行き場をなくした指先が空を掻く。
(私は無力だ)
束の間の平穏の中、最後の望みはシロツメクサの花冠をナナリーのために拵えることだった。
ただそれだけだった。
(だけど、私は無力なままでいたくない…?)
今の私の望みはそんなささやかなものじゃない。
母のように。
義姉のように。
誰よりも敬愛する二人の女性のようになりたい。
強くなりたかった。
コーネリアは、私になら、王冠に手が届くと言った。
ならば、次は自分のためだけに花冠を編もう。
スザクに教えなかったシロツメクサのもう一つの花言葉。
“復讐”
彷徨った指をぐっと握り締めた。
私は、掴みたい。
その、白く穢れた花冠を。
花畑中の花を千切って、痛みに喚き叫んでも良いから。
私はそちらの花言葉を選び取ろう。
もう、泣かないように。
守りたい人を泣かせないように。
「…ナナリーと共に、本国へ帰ります。コーネリアお義姉様」
今、花が枯れても、シロツメクサは来年も咲く。
コーネリアの肩越しに前を見据える。
私は遠くで強くなる決意をした。
- fin -
2013/09/21
撃たれる覚悟をしたから、私は弱い私を撃ち殺すことにしたの。