匣の底の少年


PHOTO CLUB

その匣(はこ)に触れてはならなかったのです。
それは、少年が大切に大切にしている宝箱だったのですから。
悪戯に触れるものを、少年は決して許しはしないでしょう。

















































「先輩!」

男は、背中にこびりつくようなその甘ったるい声で振り返った。
階段の踊場には、仄白い頬をわずかに紅く染め、息を弾ませたままの後輩がいた。
同性だとは思えないほどに華奢な肩が可憐に思え、男は口の端あたりにわずかに上げた。

「なんだ、君か。何か用か?」

「いいえ。ただ先輩が見えたので、つい追いかけてしまいました」

ようやく階段の一段下まで追いついた少年が、慌ただしく駆け出したことを恥じらうように瞼を伏せる。
まるで貞淑な生娘の仕草だと、男は内心で笑った。
鴉の濡れ羽と見紛うほど艶めいた毛髪が、ひんやりとした形の良い耳朶にはらりとかかり、頬には長い睫毛の影 が濃く落ちる。
その様相一つとっても、同年代のどの女にも劣らぬことのない儚さと優美さを滲ませている。

この美しい少年は、先日部活動の仕事で知り合ってから、何故だか酷くこの男に懐いていた。
生徒会室に資料を届けに行き、初めて顔を合わせたその日、驚きに見開いた彼の双眸が妖艶な色にとろける様を 、男はしかと見たのだ。
また同時に、男も魅入られたのかもしれなかった。
それほどに美しく苛烈だったのだ。
その少年の、紫電の瞳は。









*









解散、という主将の一言と同時に、何人かが床に臥した。
男はそれを不様だと思い、下目で冷ややかに床に転がる部員を眺め、汗を拭った。
剣道部は、普段は遅くとも七時には道場を閉める。
しかし、今日はイレギュラーがあったために、時計の短針は傾くことなく水平に左側を指している。
この学園では珍しくないが、祭好きの生徒会長が発案した突飛なイベントが、ままある。
運悪く、今日はそれが部活動の時間帯に掛かっていたのだ。
部活動が潰れるならばそれでも良いが、融通の利かないきらいのある主将の意向で、練習時間が押してしまった。
もともと男にとって、剣道などというブリタニア本国においてマイナーなスポーツは、内申書に書ける特筆事項で あるということ以外さして意味はないというのに。
普段から神経質そうな男のこめかみのあたりに、ぴりりと不機嫌な空気が漂った。

「…ったく、かったりい」

思わずこぼれた呟きを聞き咎めたのか、後輩の一人がひっそりと眉を顰めた。
わずかな変化だが、その後輩の柔らく癖のついた栗色の前髪はそれを隠すこともなく、金属を引っ掻くような不快感を 男に与えた。

「何か言いたいことでも?」

「…いえ、別に」

「なら、あまりこちらを見ないでくれないか。不愉快だ」

「………すみません」

返事だけはしおらしいが、表情は憮然としたままである。
何度言っても、この頭の弱い後輩は部内のヒエラルキーが理解出来ないらしい。
その口先だけの態度が、余計に男の苛立ちだけを募らせた。
男は持っていた竹刀で、素早く床上を薙ぐ。
かつん、と硬質な音が響いた。
しかしあまりに軽く響いた音は、人が床に崩れる音によって掻き消されてしまったけれど。

「………っ!!」

「大丈夫か?その怪我と言い、案外間抜けなんだな」

情けなく床に這い蹲る後輩を見下ろした。
後輩は、先月負った怪我のために松葉杖で生活をしていた。
男は無情にも、その杖を素知らぬ顔して弾いたのだ。

もともと生意気で、気に食わない下級生だった。
白々しく巻いた包帯が少しくらい増えたところで、何とも思わない。
むしろ、愉快ですらあるかもしれないと、男はほくそ笑んだ。
しかし痛い目を見てようやく身の程を弁えたらしく、以前のような不敬な態度には出ないのがそこそこに快い。
薄い唇を歪めるように冷笑をこぼし、男は部室へと急ぐ。

ここのところ例の黒髪の少年が、頻繁にメールを寄越すのだ。
早く確認してやらなければならないだろうと、いまだ立ち上がらない後輩には見向きもせず、道場に背を向けた。
部室へと戻った男は、冷えた汗を拭くのもそこそこに携帯電話を手に取る。
メールの受信を知らせるランプが点滅しているのを確認した時から、抑えきれずに胸が高鳴っていた。
予想に違わず、届いていたのは少年からのメールであった。

『明日の放課後、屋上で待っています』

簡素な一文に、あの可憐な少年がいかに心を砕いたかを考えるだけで、男の心は甘やかに溶けてしまいそうだ。
華奢な爪を緊張で白く染めんがら細い指が震えながらキーを打つ様を想像し、男は携帯電話を鞄にしまった。









*









風の強い日だった。
これでは、屋上はさぞ強風に煽られることだろう。
だが後輩からの呼び出しを蹴るつもりなど、毛頭ない。
だが屋上は立ち入り禁止だ。
そんなことは周知の事実であるのに、あれは一体何のつもりで屋上を指定したのかと男は首を捻ったが、運の良 いことに屋上への扉は僅かに開いていた。
大方、杜撰な事務員の怠慢かと、呆れながらも納得する。

重い扉を押し開けると、正面にはすでにかの後輩がいた。
細い手摺りに背中を預けたまま、風に乱された髪を撫でつけていた。
風はあるがあたたかいためか、彼は指定学生服の上着を脱いでいる。
真白いシャツが軽やかに緑風にはためいた。
彼は男に気付くと眩しさに目を細めるようにして笑った。

「先輩」

叩き付けるような強風の中、不思議とその凛とした声だけは耳に届いた。

「良かった、来て下さったんですね」

「ああ」

「…しかし、何の用だ?わざわざこんなところに呼び出すなんて」

「もちろん、先輩にお話があったからです」

とても大事なお話が、と弧を描く紅い唇の前で人差し指を立てる仕草が恐ろしく艶やかだ。
紫色水晶より深い瞳が、真っ直ぐに男を見つめる。
これはやはり、ある種の告白なのかと、らしくもなく男の胸が躍った。
あまりにも直向きな視線が気まずく、ふと目を逸らして男はあることに気がついた。

「…おい、ボタンが取れているんじゃないか?」

「え、何処です?」

「君も案外抜けているんだな。ほら、こんなところまで開いている」

「ああ本当だ。困ったな…」

少年のシャツの第二ボタンが見当たらない。
そのために細い首筋から鎖骨の当たりまでが白く露わになっている。
とろりと目の奥で艶笑し、誘うように彼は顎を反らした。
扇情的な様子に、ごくり、と男の喉が鳴った。

「仕方のない奴だな」

平静を装って、乱れた襟に指を掛けた。
その時、今まで愛らしい表情だけを見せていた少年が、その容姿に似つかわしくない酷薄そうな色をありありと その唇に浮かべた。
何かに化かされたようなおかしな感覚を疑問に思うより先に、どこからか小さな機械音が響いた。

「な、んだ?…っ、」

音のした方向に振り向こうとして、手の甲に鋭い痛みが走った。
少年の形の良い爪が、肉を抉り取ろうとするかのように深く食い込んでいる。

「お、おい、」

慌ててその手を振り払うと、彼は侮蔑を込めた瞳で男を見下した。
愛らしい繊細な細面など今は思い出せないほどに、温度を感じない表情だった。

「なんのつもりだ…?」

その変化についていけず、男はただ困惑した。
裂傷を追った手の甲だけがじんじんと熱を訴える。
少年は答えることなく微笑むと、背後の手摺の影に手を伸ばした。

「ありがとうございました、先輩。おかげで良い写真が撮れました」

「は、写真?」

「ええ。俺は写真部なんですよ」

彼が言う通り、その掌中には小さなデジタルカメラが収められている。
本当はデジタルカメラは趣味じゃないんですけどね、とうそぶいて。
しかし、その言葉の意味が判らない。
意図を掴みかねていると、彼はデジタルカメラの液晶画面を男に向けた。
写っているのは、つい先程の二人だ。
だがアングルのせいで、実際とは違う様相に見られる。
まるでそれは、

「暴行、されているように見えるでしょう?」

愉快で仕方ないと言うように少年が笑った。

「そういえば、あなたは大学の学内推薦が決まりかけたとこれでしたっけ?…でも、理事長がこれを見たらどう思うでし ょうね」

「おまえ…っ、」

そこでようやく、男は少年の隠しもしない悪意を知る。
男にしては折れそうなほど細い手彼の首を掴み、カメラを取り上げようとしたが、彼は躊躇うことなく高価そう な精密機器を地面に叩きつけた。
液晶は無様な虹色に滲み、レンズは四方に飛び散った。

「言っておくが、カメラを壊しても無駄だ。それは最新のやつだからな。画像は無線で転送されるようになって いる。生徒会室のパソコンにな」

「…脅迫、するつもりかっ」

「別に、そんなんじゃありませんよ、これは」

「なら一体、」

「ただの私怨です」

言い様、彼は男の襟を引き寄せて体を反転する。
勢いで、男は屋上の手摺に背中を預ける形になった。
上体がわずかに宙に浮き、本能的に恐怖に晒される。
真下は、硬く冷たい中庭だ。
放課後の生徒の談笑する笑い声が、ひどく遠くに感じる。

「こうやって、あなたも誰かを突き飛ばしたんじゃありませんか?」

少年の言葉に、男はぎくりと硬直した。
脳裏に過ぎるのは、松葉杖のあの後輩。
気に入らないとずっと思っていた、     枢木スザク。

「…っ、あれは事故だと本人が言っているのを知らないのか!?」

「はは、事故!故意に人を階段から突き落とすことを事故とは言いませんよ、先輩。あいつは面倒を起こしたく ないだけで、犯人を知らないわけじゃない」

試合が、近かった。
しかし団体戦のメンバーには、男ではなく後輩が選ばれた。
部活動に思い入れがあったわけではない。
だが、許せなかった。
学年の差か、人種の差か、あるいは価値観の相違であるのか。
理由はわからないし、わかる必要はないと思った。
階段からその背に手を掛けるのは容易く、何の躊躇いもわかなかったのだ。

「く、枢木に頼まれたのか?」

「まさか。言ったでしょう、これは私怨だと。俺がただ個人的に、あなたが許せない。それだけだ」

少年は真っ赤な唇を歪めて、鳥肌を誘うような笑みを浮かべた。
アメジストの双眸が真剣味を帯び、ぐいと体重を掛けられ、さらに体が傾いだ。
片足が、とうとう空を蹴る。
耳元では轟々と風が吹き、突き落とされると直感して目を瞑った。

しかし、少年はそこであっさりと男の襟首を離した。
抜けきらない恐怖心から男はそのままコンクリートにしたたかに腰を打ちつけた。
掴まれていた制服はぐしゃぐしゃと皺になっている。
仰ぎ見た少年は逆光になっているせいで、表情の判別は出来ない。
けれど透明度の高い怒気はいっそ美しいほど透き通っていて、男の乾いた肌を腐食させるように沁み込んだ。




「"あれ"は俺のものだ。もう二度と、気安く触れようなどとは思わないことだな」




高らかに言い放つと、そのまま踵を返した少年は屋上をあとにした。
取り残された男は青く高く晴れ上がる蒼穹を見つめる。
自分は触れてはならないパンドラの匣に触れてしまったのだと、ただその事実に眩暈がした。
力無くうなだれた手のひらには、砕けたカメラのレンズが少年の悪意のように深く刺さっていた。

- fin -

2009/5/6

何の希望も残さず、匣は開いてしまったのです。

***

おまけ↓(反転してください)

「あーらルルちゃん、随分ご機嫌じゃなあい?」
「そう見えますか、会長?」
「ふふ。とーっても、ね」
「なら、きっと良い写真が撮れたからですよ」
「そう。そう言えば、さっきニーナが生徒会のパソコンで面白いものを見つけたんだけど、ルルちゃん心当たりは?」
「知りませんよ」
「あら残念。とっても面白かったのに」
「そうですか。…でもそれは、会長の判断で処分して良いんじゃないですか。あなたなら適切に処分なさるでしょう?」
「…ええ、そうさせてもらうわ。助言ありがとう、副会長」
「どういたしまして」

*

「ルルーシュ!」
「ん?ああ、スザクか。どうしたんだ」
「それは僕の台詞だよ。部室行っても君がいないから…」
「鍵は渡してあるだろう?おまえなら勝手に入ったって構わないさ。それに俺だって毎日部室にいるわけじゃな い。今日は生徒会の仕事があったんだ」
「それはそうなんだけど…え、と」
「なんだ?」
「うん、あの、…ルルーシュが最近うちの先輩と一緒にいるって、その、」
「ああ、それが生徒会の仕事だったんだ。この間のイベントで色々あってな。ほら彼は剣道部の会計だろう。そ れともなんだ、嫉妬か?」
「そういう訳じゃ…。ううん、でも…」
「でも?」
「…あの先輩は、ちょっと。………いや、ごめん。やっぱり何でもない」
「大丈夫だよ」
「え?」
「おまえが心配することなんて、何にもない」
「…ルルー、シュ?」
「なあそうだ。今日は剣道部ないんだよな。だったらこれからデート、しないか?」
「え?う、うん!する、したいっ」
「はは」
「でもどうしたの、突然。そういえば今日ずいぶん機嫌良いね」
「…ああ、今日は良い写真が撮れたんだ」
「そっか!良かった。ルルーシュが嬉しいと、僕も嬉しい」
「俺も、おまえが笑ってくれるのが一番嬉しいよ」
「えー、何それ。変なルルーシュ」
「良いよ、良いんだ。スザクは知らないままで。…それより、出掛けるなら早く行こうか」
「うん!」